2009年6月18日木曜日

じいちゃん追悼

今週の火曜日の夜中に、じいちゃんが突然亡くなりました。
肺炎をこじらせたらしい。特に持病なんか持ってなかったし、
元バリバリの漁師で、島人で、日に焼けた男前な81歳で、
自信があって、屈強で健康魔なイメージだったので、
知らせを聞いたときには
「うそやろ~あのじいさんが死ぬわけない」としか思いませんでした。
悪くなったと聞いてから、あっという間に逝ってしまいました。
せっかちなじいちゃんだ。

月曜の夜中11時くらいに実家に電話したら、
ちょうどその何分か前に、母も大分市に住んでいる叔父から
危篤状態と電話を貰い、蒲江から飛び出る準備をしていたそうです。
その時間にあたしから電話をかけたのも不思議なタイミングだった。
母たちが家を出るので、とにかく電話を身から離すなと言われ
電話を切りました。
その時はじいちゃんはきっと持ち直すだろうと思ったけど、
ソワソワして、もしもの時があったらと思い、
九州の方を向いて手を組んでお祈りをしました。
何教のどの神様への祈り方かわからんけど。笑
「もしじいさんが今夜逝かないといけないなら、
 うちの母ちゃんがじいさんの顔見て、
 お別れができるまで、もうちょっとだけ待ってください」
と心のそこから本気で祈りました。
もう私ができることも無いな、と思い、
横になって目をつぶってたらいつの間にか寝てました。

夜中の2時頃に電話があり、妹の泣き声で訃報を聞いて
あたしも大泣きしました。
でも親子が会ってお別れできたんやけん、よかったと思った。

なので、今週はまた大分に帰りました。
日本に帰ってからというもの、毎週新幹線に乗ってるなあ。
移動中はじいちゃんのこのタイミングのことをずっと考えてた。
たぶんあたしが日本帰ってくるの待っててくれたんやって思います。
あたしがアメリカにおる時やなくてよかった。
葬式出れてよかった。



通夜と葬式には、たくさん人が来てくれました。花もいっぱい。
10数年ぶりとかで会えた親戚もたくさんいて、嬉しかった。
じいちゃんの死を悲しんで、泣いて、
久しぶりに会えた人たちと思い出話して、笑って。

葬式の意味を痛感しました。
故人を思って悲しむのはみんなでいっしょにがいいのだな。
人との繋がりはありがたいです。
人は一人では生きれないというがまさにそのとおりで。
一人では耐えがたいこともみんなとなら和らぐこともある。
叔父叔母、大叔父、大叔母たちが集まって
協力して葬式を作り上げていました。何かカッコよかった。
孫もでっかくなったので、なんぼか手伝ったのよ。

孫代表ということでつたない弔辞を読みました。
前の晩に、斎場に泊まっていたいとこ同士6人で
じいちゃんの生前の面白エピソード会議をし、
それに基づいて手紙を書きました。笑
あんまり悲しい寂しいお別れの言葉は避けよう、
元気な孫でお別れを言おうと思い、
楽しかった思い出話を並べていたのだけど、
しょっぱなから泣いてしまいました。だめじゃん。笑



うちのじいさんは、戦前・戦中・戦後を生きて、
時代と蒲江の漁の移り変わりの中を戦いながら生きた
そんちょそこらの嘘っこテレビドラマなんか屁とも思わんような
すごい激動の波乱万丈の人生を生きた頑固親父だったそうです。
子どもには大変大変厳しい父親だったそうですが、
私たちには孫煩悩で優しかったです。
じいちゃん、ありがとな~。お陰様で22になりました。
ひ孫見せてやれるまで生きてほしかったけどな~。
さきこはこれからも頑張って生きるけん。

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